GIFT OF LIFE

すい臓がんのこと, 日々雑感

私は今、すい臓がんという、余命宣告を受けなければならないような病気になってしまって、それと向き合い闘病する立場になりましたが、そういえば余命宣告を受けるのは自分の人生で二度目であることを思い出しました。

一度目の余命宣告は23年前でした。それは私自身にではなく、当時生まれたばかりの次男に対してのものでした。

その時のことを、6年ほど前に、当時のブログに記事として書いていたものを見つけましたのでここにそのまま引用してみようと思いました。そうすることで今の自分の状況に正面から対峙しようと思ったのです。

以下、2013年に書いたブログ記事のそのままの引用です。


17年前、私に次男が生まれました。そして彼は生まれてすぐ、胆道閉鎖症という難病であることが発覚し、生後半年以内に2回の手術を受けました。そして2回とも手術が失敗しました。
胆道閉鎖症というのは文字通り胆道が詰まって肝臓からの胆汁が腸に通らなくなり、そのせいで、肝不全を起こす病気です。最終的には肝硬変を起こしてしまいます。原因が明らかになっておらず、先天性の病気だと云われています。

次男は、胆汁が出ないから、うまれて数ヶ月もたたないうちにだんだん色が薄れてきていた便が、徐々に白くなってゆくのに反比例して、身体の色が、黄疸のオレンジ色から黒ずんだ緑色になってゆきました。そして腹水がたまって膨れ上がった下腹部と、其れに押されたヘルニアのせいではれ上がった睾丸。強く抱きしめると破裂して潰れてしまいそうないたいたしい身体のこの子供を風呂に入れながら、私は、必死で希望を見出せる材料を探していたのを思い出します。
胆道閉鎖症において一般的に行われる処置は、葛西手術と命名された、肝臓に直接腸を吻合し、肝臓から直接胆汁を腸に流そうと云う手術です。
生後半年がたった頃、第1回目の手術が行われました。この直前には次男の便は、豆腐のようなきれいな真っ白な色になっていました。
1回目の手術は失敗しました。そして時間をおかず2回目の手術。
この2回の葛西手術のあと、いずれも、手術直後には次男は真緑色の便が出ました。(胆汁が腸に通ったということ) しかし、だんだんその色が薄れてきて、数日もしないうちに再び真っ白にもどってしまいました。喜びと絶望。ジェットコースターみたいに襲ってきた・・・・ 期待感が大きかった分、絶望感も途方もなく大きかったのを覚えています。
そして数週間後すぐに予定された3回目の手術。この手術は最後の手術だと言われました。これに失敗するとタイミング的にも本人の体力的にも打つ手がない、と。
そして手術当日。
手術はなされませんでした。終業後会社から駆け付けた私に、主治医は、本人が熱を出して、病院の規定で手術自体が中止になったと告げました。
「死んでもいいからやってくれ」と私はいったけど、主治医に拒絶され、私はその場にうずくまってしまったのを覚えています。
その夜、病院から最寄りのJRの駅までの道すがらの事を私は一生忘れられません。
次男の手術の途中、妻から次男の病院にいた私に電話がありました。その日の午後、当時2歳の長男がけいれん発作を起こし家の階段から転げ落ち、救急車で最寄りの病院に運ばれたということだったのですが、妻はその長男に付き添って救急病院にいっていたのでした。
「髄膜炎かもしれない・・・」と妻は私に告げました。
もう随分と前の事なのに、あの夜の事が昨日の事のように思い出されます。
これから長男の入院している病院に向い、妻に報告しなければならない・・・次男の手術自体が行われなかったと云う事を・・・そして髄膜炎だと診断された長男はどうなってしまうのだろう・・・
その時は、どうしょうもなく歩いていることがつらかった。私は突然道端にうずくまり、おう吐しそうになったのを覚えています。

そしてその翌日、次男の主治医から、このままいけば次男は余命1年程度であろうと告げられたのでした。
私たち夫婦は、当時はまだ日本では実験医療であった生体肝移植という道を選びました。でも当時は、それを選ばない選択肢のほうが主流でした。費用の問題もありました。それ以上に、何の保証もない医療でした。当時の次男の病院の主治医も移植には反対の立場で、
「移植をしても5年は生きられない。酷だけど、考え方によっては、今このまま運命に任せて死なせてやった方がお互い幸せかもしれない。子供の方は1歳というまだ記憶もない時期だし、親にとっても何年間か一緒にいて情が移ると、かわいい盛りにこの子が死ぬ時、今以上にとてもつらいとおもうよ・・・」 
そう言われたことを今でも鮮明に覚えています。
この意見は残酷だけどある意味正しいと、今は思います。延命治療に関連するテーマでしょう。 しかし当時の私には到底納得できるものではありません。
私は、当時の勤め先のつてを頼って英国の移植の権威のもとで研修をしたことがあるという方にも意見を求めました。彼の意見は、
「移植というのは現時点ではまだ5年の歴史もないのだから、5年以上生きるという保証は誰もできない」と、まあ当然と言えば当然のものでした。
そして私たちは、私自身からの臓器提供という生体肝移植という道を選びました。
できることなら1日でも、2日でも長生きさせてあげたい。本人は肉体的に苦しみだけを長引かせることになるかもしれないけど・・・身勝手かもしれないがそれが親の自然な気持ちです。そして、生まれてきた以上、一日でも長く生きることが正しい道だと自分自身に強く言い聞かせました。

おかげさまで移植手術は成功しました。そして、入退院を繰り返し、いろんな紆余曲折はありましたが、この息子は今も元気に生きています。 今年高校三年生になります。

この息子が8歳のころだったか、フランスで開催された世界移植者競技会(移植者のオリンピックのようなもの)への本人の出場を機に、あるテレビ局のニュース番組の取材を受けました。その時インタビューで、記者から、
「移植直後のお父さんの気持ちはいかがでしたか?」と問われた時、 わたしはこう答えたのを覚えています。

「自分自身がICUから帰ってきたとき、病室の息子が俺の顔を見て笑った。この子が生まれて初めて、私は彼の笑顔をみました。そして、こいつって笑うんや!と思った・・・今までさぞかし体がしんどかったんだろうな・・・それが率直な気持ちでした。」

今、私は日々の事項に忙殺され、過去にそんなことがあったことすら忘れきっています。

しかし、世の中は私の次男のケースのように上手くいったケースばかりではありません。
今に至るまで、さまざまな報道番組の中で、不幸にも残念な結果になってしまったケースを私たちはいくつも見聞きします。私自身、病院でそんな子供達を見てきました。
昨日まで目が合うたびにその子は私に笑ってくれたのに、あくる日綺麗に折りたたまれたベッドの上の布団。(退院したのではない・・・)どうかそのシーンを目の当たりにしたときの張り裂けそうな気持ちを想像してみてください。


そしてその時、救われた命を仮に奇跡と云うのであれば、その奇跡の背後には、残念ながら救われなかった命がその何千倍、何万倍もあることにも思いを馳せるのです。

親の気持ちは、救われた命に対しても、救われなかった命に対しても、平等にその子供に愛を与えてきたのだと・・・・そして闘ってきたのだと・・・


親たちは、一つの小さな命を救うために、そして守るために・・・たたかった。


報われた愛よりも報われなかった愛の・・・
報われた涙よりも、報われなかった涙の・・・
その甚大さに思いを寄せるとき


報われた涙の量よりももっとたくさんの報われなかった涙が流されたことを
思い出すとき


救われた命の奇跡の尊とさにもまして・・・
命を救おうとたたかってきたことが尊いのだと・・・
そして
救われた命とまったく同様に救われなかった命も尊いのだと・・・
病気と闘ったという事実が尊いことなのだ

私は今、そう思いました。 昨今、いじめや体罰や・・・若い命が無残にも散ってゆくことが残念でなりません。
自ら命を絶ってしまった子供達には、本人の苦しみはあるにしても、やっぱり生きてほしかったと思うのです。

この世に生を受けた以上、一番正しいことは、一日でも長く生きることだと信じています。
今はつらくても、悲しくても、みじめでも・・・
きっとそれは間違っていないと確信しています・・・


長文の引用になってしまいましたが、これが6年前に私が書いたブログ記事です。この次男は今年24歳になりますが、元気で、週末には我が家に来て私の体を心配してくれています。

6年前には思いもよらないことでしたが、今この記事を一番読ませたい人間が自分自身であることに気づきました。

あの時書いた思いは今も変わりません。1日でも長く生きること。

最低でも5年は生きながらえること。そして自分自身の夢を見果てぬ夢にしないこと。

改めてそう思いました。