シヴァの市
駅員の叱咤する声を僕は随分遠くで聞いたような気がする。僕もそれに答えて何か云ったかも知れない。その自分の声も奇妙によそよそしかった。酩酊していた。何処でどう飲んで今何時頃なのか全く判らなかった。体表が痺れるように寒かった。幾台もの車が行き過ぎる音が耳許でしていた。しばらくするとその音も消えた。体表の痺れが全身に回ってきたようでもう寒くさえなかった。何だか知らないが悔やまれてならなかった。僕は路上に横たわった侭、悔しくて悔しくて仕様が無かった。そうしてじっとしていると瞼の裏に涙が滲んできた。
「それで・・・・」と男が聞き返した。
「そう聞かれると困るけど・・・・」と僕は笑って答えた。
「それが君がまた此処に舞い戻ってきた訳と云うことかい?」 男は無表情の侭マリファナを巻く手を止めて僕を見つめてそう云った。そしてその巻き終わったものを僕の方へ差し出した。
僕は再びこの街に戻ってきた。十年振りだった。さして懐かしいと思っていた街でもなかった。二十歳の頃世界のあちこちを旅して歩いた。この街には約一箇月逗留した。此処にいる間はこの街が嫌で嫌でたまらなかった。この街の汚さといい、喧噪といい、当時街角のあちこちで起こっていた宗教的理由からの殺戮(テロ)といい。何にも増して、この土地の頭を狂わせるような暑さには耐えられなかった。だが僕は、十年達ってこのヴェナレスに舞い戻ってきた。何か求めるものがあった訳でもなかった。絶望の果ての、日常からの逃走といったような気取った感傷などさらさら無かった。
コウジに再会したとき一目見て彼と判った。彼はあまり変わってはいなかったが十年前と比べて線の細さが無くなって随分精悍さを増していた。目つきはますます厳しさを増していた。彼の住まいは10年前と同じホテルだった。正確にはホテルの屋上に建て増したバラックだった。あの頃は居なかった若い従業員が僕を彼の部屋に案内した。
「やあ、覚えてるかい?」開口一番僕はこう聞いた。
ああ、と云ってコウジは微笑んだ。
そして、「しばらく振り…」、と彼は答えた。そして
「僕は、君が何時かこの街に舞い戻ってくるものと思っていたよ」
と神妙な面持ちで言った。
「だが僕は、君が十年もこの街に留まって居るとは思わなかったよ」
僕はそう言ってコウジに微笑んで見せた。
コウジは十年前、始めて逢った時、日本を捨てて此処に来たと云った。僕より五才年上、彼は二十五歳になったばかりだった。「妻も子供も捨てちゃった」、そう云ってはにかむように笑っていたのを僕は思い出す。彼は当時インド人の教師についてシタールを習っていた。一度彼が曲を演奏してくれたことがあったが、それが何ともへたくそで、それは技術の未熟というのでは無く、根本的に音感の無さに起因するものであることを、この楽器の演奏を以前に聞いたことの無い者にも容易に察することが出来た。そのことを思い出して彼に聞くと、もう止めたさ、と簡単に答える。
「それにしても懐かしいいねえ。僕にとってはたったひと月の事だったけど、今でも時々君と過ごした短い時間のことを思い出すのさ。」
「それほど日本が嫌になったかね。すたこらさっさと、こんなところまで逃げ出してくるほどにさ」
「それは君と同じだよ」と、僕は云って笑った。そう云いながら、日本のことは思い出したくないと思った。思い出そうにも、もう忘れてしまって、記憶の糸口がつかみ出せないような奇妙な気持ちだった。
ああ、そうだ。此処に居ればあらゆることを忘れられる。日本での日常の煩雑なことを一切思い悩まずに時間を浪費して居られる。一日中ガンジャ(マリファナやハッシッシの類)を燻らせて夢心地で丸で夢遊病者の様に生きて居られるのである。砂埃のたち上る匂いと、行き交うリクシャの軋みや雑多な物売り達の呼び声、街角での罵倒しあう声、笑い声。泣き叫ぶ子供の声。それらの喧噪の中の赤茶けた風景に紛れて歩いていると、どうしたわけか、やっと人間らしさを取り戻したような生き生きとした気分になってくる。
夕刻、僕は丁度十年前と同じようにコウジと並んでヴェナレスの市街をガートの方に向かって歩いた。町なかの何もかもが十年前と全く同じだった。土色の家並みのすき間から時々姿を見せる遠景の純白のモスク。その上の透き通るような青い空。絶え間無く行き過ぎるリクシャの男達が必ず振り返って僕達に声を掛けて行く。その男達の粗悪な生地で織られた埃まみれのスカーフ。或る者はそれをターバンの様に頭に巻き付け、或る者は首に、また或る者は腰にその布きれを巻き付けていた。彼らの黒褐色の地肌。裸足の分厚い踵。ひび割れて血色の筋が幾筋も刻まれている。
その筋が、足が動く度にきゅっきゅっと押し潰されるのを僕はまるで頼もしいものを見守るように眺めていた。竹笛売りの少年が道路の軒から声を掛ける。棕櫚箒の様に高い竿の上に数珠なりに差されている笛。自ら一本取り出して吹いて見せる少年。行きすぎる人々の雑踏の中に次第に掻き消されて行くその音色。市は夕刻に成り掛けていた。たち上る雑踏の砂ぼこりを凪ぎの後かすかに吹き始めた風が洗って行く。辺りは幾分涼しくなってきた。沈んだ空気の底を撫でる様に何処からともなくモスクのイスラム音楽が粗悪なスピーカーの雑音を交えながら流れてくる。
ガートに程近くなるにつれて段々と夕闇が増してくる。大通りの、果物売りや野菜売り、ココナッツを割って果汁を飲ませる屋台や、タンカ売り、経文売りの軒先に湿った裸電球の灯が点り始める。辺りはまだその光を吸収仕切れるほどには暗くなってなかった。その夢幻のような空間を多数の人達が行き交う。
なんだか後頭部がずっしりと重たかった。一歩足を踏み出す毎に水の中でもがいているような空気の流れを感じた。
「もうすぐシヴァの市が来るねえ」とコウジが云った。
「シヴァの市?」
「そうだよ。この街の守り神シヴァのお祭りさ」
シヴァ、破壊と創造の神、ヴィシュヌと並ぶヒンズーの最高神、と僕はとっさに思い出した。
「それはどういう祭りだい?」と僕は聞いた。コウジの顔が一瞬曇ったような気がした。
「死者の再生の儀式だよ・・・・ガンジス川の底に堆積した死者の灰の中から神様が行き場の無かった魂に生命を与えるのさ。そして輪廻の数珠から外れてしまった者達に再び秩序と息吹を蘇らせるのさ。人々はそのシヴァに感謝して市を開く・・・・」
そんな祭りがこの街に有ったのか、と僕は漠然と思った。その僕の思いに答えるようにコウジが云った。
「いずれ君にも判るさ。ここに居る限りね。やがて君にも訪れるはずさ」
ガートに着いたときはもうすっかり暗くなっていた。それでもまだ沢山の人達が辺りには残っていた。橙の街灯に照らし出された仄暗い階段を帰って行く人々の間を縫うように下りて行くと途中から真っ黒な裂け目のようなガンジス川が見えてきた。川辺の寺院から読経の声や打ち鳴らす銅鑼の音がしていた。僕はガンジス川を見た途端に何とも言い様の無い懐かしさに囚われた。十年前この街に居た一ヵ月の間何時もこの川のほとりに屯していた。とりわけコウジと二人で来た或る未明の事を思い出して懐かしかった。
十年前のあの日は、このヴェナレスでヒンズーとモスリムが衝突してお互い合わせて百人以上の死傷者が出てから数日もたって無かった。前々日辺りから街には戒厳令が敷かれていて終日外出禁止命令が出されていた。日中も、大通りに面したホテルの屋上から見ていると、商店のシャッターは全て閉ざされていて通りを歩く人影もまばらだった。眼に付くのは重そうな銃を携えた兵士等ばかりであった。その街の様子を伺いながら、僕とコウジの間で話題に上ったことが有った。それは、この戒厳令の中でも毎朝ヒンズー教徒はガンガー(ガンジス川)での沐浴を欠かさないだろうかと言うことであった。確かめたい、と僕達は思った。
その翌朝四時ごろコウジが僕の部屋に誘いに来た。僕達はロビーで丸くなって寝ているホテルの従業員たちの頭の上を、毛布の端から覗いているライフルの銃口を注意深く避けるようにして股いで、そっと玄関の鍵を開け塀を乗り越えて外に出た。吐く息が白くなるような寒さだった。暗い町中はさすがに僕達以外に歩いている者の姿は無かった。ホテルからガートまで小一時間ぐらいだった。ガートに近付くにつれて粗悪なスピーカーから流れる御詠歌のような音楽が次第に大きくなってきた。まだ明け方だというのにガートの近くのチャイ屋は開いていた。僕達はそこで熱いチャイを飲んだ。しばらくくつろいでいると通りの人影がまばらに増えてきた。みんなガートに行くんだと思うと何だか興奮してきた。その時不意に背後から肩を掴まれた。振り返ってみると、銃を携えた若い兵士だった。彼はへたくそな英語で早口にまくし立てた。戒厳令が敷かれているのにこんな処で何をしているのかと彼は云った。外国人は終日外出禁止だといった。僕達は早急にホテルに帰る約束をしてやっとパスポートを返してもらった。だがやはり、僕らはガートに行った。そしてそこで見たのは朝靄の中で沐浴する数多のヒンズーの老若男女であった。
「人の営みと云うのは頼もしいねえ・・・」とコウジが言った。
「こんななかでも人々はちゃんと沐浴をしにガートに集まってくるんだねえ」
呆けたような表情でそういうコウジを見つめながら、僕は、そうかな?と思ったのを憶えている。こんな状況下でも沐浴を欠かさない人の営みなどと云うものはなんてあさましいのだろう・・・
僕はそう思ったのだった。
そんなことを思い出していた。僕はコウジと並んで岸辺に打ち付けるガンジスの黒い光沢のある水を見ていた。その時十才ぐらいの少女が来て声を掛けた。少女は腕に小さな篭を下げていてその篭の中には小さな黄色い花が沢山入っていた。
「精霊流しだよ」とコウジが僕に云った。そして少女に、
「全部買ってやるよ」と云った。少女は篭を置いて何処かに走り去ったがすぐにマッチを手に持って嬉しそうに戻ってきた。精霊舟は何かの幅の広い葉を舟の様に編んで作ったものだった。その上に短い蝋燭が固定されていた。少女がそれを岸辺に並べて次々に火を付けていった。そして小さな黄色い花を二つ三つ、そっと蝋燭の周りに置いて行く。コウジがそれを川辺に浮べて手で水を掻かき回す様にして川中の方に押し遣った。僕はゆっくりと沖の方へ列をなして流れて行く精霊舟を何か荘厳なものを見るような面持ちで眺めていた。しばらく眺めて居るとコウジが立ち上がって云った。
「さあ、行こうか」
「何処へ?」
「僕達も舟に乗るんだよ」
僕らはそこから小さなボートに乗って川中に出た。ボート漕ぎの老人は何だか悲しそうな顔をしていた。それが何とも印象的だった。艪が廻される度に黒い水にしぶきが上がって白くあぶくを流して行く。川の中程辺りで来た方を振り返った。ガートの全景が黒い壁の様に夜空に浮かび上がった。まばらな寺院の灯、水際の篝火、水面を流れて行く精霊流しの火。その暗い岸辺と、黒い水面の上には満天の星が降るように輝いていた。ガートの両端には、岸辺に連なっている篝火よりもひときわ大きく燃えている二つの火があった。それは赤々と豊かに燃え上がっていた。
「ああ、今夜も死体を焼いているねえ」と、コウジが云った。その声が随分遠くでしたような気がして、ドキッとして僕は振り返った。
振り返ってはっとした。
そこにはコウジは居なかった。今までボートを漕いでいた筈の老人の姿も無かった。舟に乗っているのは僕一人であった。僕は狼狽してコウジの名を呼びながらボートの周りの水面を捜した。水はとうとうと流れていた。僕はしばらく呆然として岸辺の方を見ていた。漕ぎ手の無くなった舟はゆっくりと川を下って居るように思われた。一人岸辺の死体を焼く火を見つめていると急に悲しくなってきた。あの火の燃え盛っている岸辺が、もう戻ることの出来ない此岸の様に感じられて目頭が熱くなった。そして満天の星空の下を孤独に何処へともなく流れて行く自分を感じていると何だか知らないが悔やまれてならなかった。そして遣り残してきたことや残してきた者達のことを考えると急に申しわけないと云う気がした。
「すまない・・・・許して欲しい・・・・」と口に出して云うと、耐えきれず涙が流れた。頬を伝う涙が熱いとぼんやりとした頭で思った。
僕は深淵から引き上げられるようにして目覚めた。気が付くと、男が僕の顔を覗き込んでいた。
「お客さん、着きましたよ」
頭を上げて僕は辺りを見渡した。
「草加駅だよ。こまるなあ、お客さん。しっかりしてよ。大丈夫? 歩けるかい?」
僕は運転手の手に1万円札を握らせると車の外に出た。冷たい外気が次第に頭をはっきりさせてきた。僕は茫然と走り去ってゆくタクシーを眺めていた。
しばらくして僕は、小雪の混ざる街路をゆっくりと歩き始めた。何処で車を拾ったのか全く思い出せなかった。そして今自分がインドに居たと思ったのは夢だったのかと思った。それにしては随分とリアルな夢だった。そうして今見たインドの夢を最初から辿っていて急に思い付いた。
ああ、そうだった。コウジは、十年前、ヴェナレスのあのホテルで自殺したのだった。
コウジはヘロイン中毒だった。その自分の前途に絶望して自殺したのだった。
了