瓦斯燈

2019年8月30日

たった今火を入れられた瓦斯燈(がすとう)はちろちろと青白い炎を吐き出している。それが茜の空に今にも幽(かす)かに消入りそうで眼が離せない。眼を反らせた瞬間に火が消えてしまったら、僕は随分と損をしたような気分になるだろう。そう思って眼が離せないのだ。夜まで後少し時間がある。街角の舗道の敷石の冷たさが徐々に素足に直に履いた革靴の底から染みてきて、それが今までの空腹感に勝ろうとしている。季節の底を嬲(なぶ)るように吹く冷たい風が衣服にまとわり付いて遣瀬無(やるせな)いので、僕は幽(かす)かな風圧に抗うように外套(がいとう)の衿(えり)を手繰り寄せた。そうして、宵の瓦斯燈に火を入れて歩く老人の方をぼんやりと眺めていた。青ざめた風の流れ、黄昏(たそがれ)の雑踏。その輪郭も定かでない数多(あまた)の人影の中にかき消えて行く老人。やがて線路の軋(きし)みが近付いてくる。巨大な二階建ての路面電車がゆっくりと通り過ぎようとしている。その二階、八角形の硝子張りの構築物。その中の『走る舞踏会』。着飾った貴公子共が婦人の手を取って踊っている。明るく煌煌(こうこう)たる装飾燈(シャンデリア)。音楽は全く外に洩れてこない。それ故余計に内部の華やかさが感じられる。その路面電車の一階は甲裝車の体をしていて、所々ぽっかりと開いた穴からは砲口が覗いている。その周囲を取り囲み隊列を組んで行進する兵士等の群れ。線路の軋み。それに呼応する長靴の響き。路面電車が行き過ぎると、その光を追うように群れ飛ぶ蛾。その群れから雪の様に舞い落ちる鱗粉(りんぷん)。再び街の雑踏。行過ぎる者達のお互い叫応しあう声の群れ。その囁き声や哄笑の合間を、時々赤い腕章に黒ずくめの憲兵等の姿も混ざる。路面電車がもう遠くに行き過ぎていったと思った頃、まるでその路面電車の軌跡を追うように、ぼくの目の前を、自ら首を吊すための梯子と綱を背負った全裸の天使が一人黙々と歩いていった。項垂(うなだ)れて陰鬱な顔をした子供の背丈しかない裸足(はだし)の天使。その白い翼に瓦斯燈の青い灯が映えてとても奇麗だ。だがその姿に誰も眼を止めようとはしない。もう陽は完全に沈んでしまって、空は群青(ぐんじょう)に輝いて見える。Iはまだやってこない。約束の時間はとっくに過ぎているのに。再び足の冷たさよりも空腹感の方が勝り始めた。

人を待っているんだと、僕は素っけなく答えた。
あら、男娼(ボーイ)じゃなかったのねと、今、商売の邪魔だからあっちへ行けと云った娼婦が笑う。だぶだぶのワンピースの上にだらしなくコートをはおっているが、身体は華奢に違いない。その脂粉(おしろい)の匂いのどきつい厚化粧の顔からは、薹(とう)が立っているのかまだ二十歳(はたち)にもならない小娘なのか判断が付かない。暗いところで判ることはやせぎすの顔の割りには眼が随分と大きいということだけだ。憔悴(しょうすい)し切ったほの暗い街灯の光の中で女の声だけが奇妙に華やかだった。
…オンナを待ってるの?
…男だよ
…ねえ、夢を買わない? 安いわよ。
…安っぽい夢はいらない。パンが欲しい
…パンは売れないわ。持ってないもの
僕はそっぽを向いて空を見上げた。建物(ビル)と建物(ビル)の狭間に架けられた細いロープの上を誰かが綱渡りしている。輪郭がIに似ているがここからは遠すぎてはっきりと判らない。手に携えた長い天秤棒(バランス)が黒く夜空に光っている。
…あんなこと出来るのは天使か悪魔ね
振り返ると娼婦が僕の横にたたずんでいる。同じように色の深さの定かでない夜空を見上げていた。
…天使はさっき首を吊りに行ったさ
…じゃあ 悪魔だわ
…Iに似ている・・・・何をしているのだろう・・・・
…綱渡りしてるのよ
… そんなことは見れば判るさ。でも何のために?
…知らないわ、そんなこと。綱渡りがしたいんでしょう
なるほど・・・・と、僕は頷いた。女の言葉にでは無かった。僕はますますあの男がIに似ていると思った。別に不思議は無かった。男はもう建物(ビル)と建物(ビル)の谷間の中間ぐらいまで来ていた。危なかしい処はこれっぽちも無かった。身体の動きの機敏さがまだ少年の様なのに奇妙に時代錯誤なフロックコートのようなものを身に纏(まと)っていた。僕とこの女以外に誰も綱渡りをしている男に気付いていないようだった。そのことが随分奇妙に思われた。
しばらくして、太った派手な身なりをした中年の男が娼婦に声を掛けた。男は女の馴染みの様で、からかうように笑いながら女と話すがその顔立ちも周囲が暗くてはっきりしない。
今夜はもう売れてるわと、女は舌を出して云い、僕のコートの袖を握った。
…僕はまだ買っちゃいない。それに金が無い
…何時でもイイのよ。つけにしとくから。アタシの秘密はお買い得よ、キッと。みんながそう云うもの
…公開された公然の秘密なんか僕はいらないね
…ステキよ、アンタ。暗い眼してるもの。アンタ、抵抗運動家(レジスタン)なの?
そんなもんじゃ無いと、僕は苦笑して答えた。
…さあ。行きましょう
…何処へ?
… 野暮な人。暖かい処だわ
そう云って女が微笑んだ。

僕は部屋に入るとしげしげと女の顔を見つめた。暗い処では厚化 粧をした華やかな顔立ちに見えた女の顔が、薄寒い裸電球の許では蒼ざめた陰気な顔立ちに見 えた。僕が真剣に見つめていたからか、女も真面目な顔をして僕を見つめている。そうして口許に引きつるような笑みを浮べた。部屋は随分とこじんまりしてい た。小さなベッドが一つ置いてあるだけだった。暖は無かったがベッドの上に二人寄り添って座っているとそれだけで十分暖かかった。たった一つある小さな窓 は一面水滴で曇っていた。窓の外は漆黒の深淵の様に思われた。僕はその窓の水滴を外套の袖で乱暴に拭き取ると外を眺めた。

もうすぐねえと、その時不意に女が云った。
…ああ、もうすぐなんだわねえ
しみじみとした口調でそう云う女の顔を僕は見つめ直した。女は不安そうに僕の眼を見つめていた。
…何が?  と僕は聞き返した
…判ってる癖に
そう云って、女は先程と同じ引きつるような笑みを口許に浮べた。
ああ、そうだね、そうだったねと、僕は呟(つぶや)いた。そうして、不意にそう云ってしまって、その自分の言葉にぎょっとした。何かがもうすぐやってくる。或いは何かが起ころうとしているのか。僕はその答え をもう既に知っているような気がした。さっきまで判っていたのに度忘れしてしまったような、喉元まで出かかっているのにそこに引っ掛かってしまっているようなもどかしい遣瀬無(やるせな)い気分になった。そして、女の云っていることは非常に重要なことなのに、そしてそれを自分も判っているようなのに幾ら捜しても出てこない、そういう自分がたまらなく不安だった。
女が無言で身体を僕に摺り寄せてきて眼をつぶった。僕はその女の頼りなげな顔を見つめている内にますます不安が募ってきて、思わず力一杯女を抱きしめ た。柔らかい女の頬に自分の頬を押しあてるとそこからかすかな女の体温が感じられて幾分安心した。部屋の中はもう十分暖かかった。女を抱きしめているともっと暖かくなってきて心地よかった。僕は女を抱きしめた壗(まま)ふと窓の外に眼を遣った。 何かの気配がした。水滴を含んで曇っている窓硝子の向こうから誰かがこっちを見つめているような気がした。眼を懲らして僕は再びぎょっとした。真っ白な奇麗な頭蓋骨が闇の中に浮かび上がっていた。その骸骨の有りもしない眼と眼があったような気がして背筋が寒くなった。それは明らかに僕の方を見ていた。遠くで爆竹の鳴る音がした。窓の外が一瞬紫色に輝いて見えた。誰がこんな真冬の夜に花火を上げたのだろう。その紫の閃光の中で件(くだん)の頭蓋骨はやはり窓硝子に張り付いていて、僕の方を見ていた。ちょっと微笑んだようにも見えた。

さようなら・・・・・と、女が不意に呟いた。僕は女から顔を離してその顔を覗き込むように見つめた。女は眼にうっすらと涙を溜めていた。僕は再び女の丸っこい肩に頭を落とした。そして抱きしめる手に力を込めた。
さようなら・・・と再び女が誰にともなく囁(ささや)いた。

さようなら、みなさん。さようなら・・・・

続け様に爆竹の鳴る音が、今度は随分近くで聞こえた。部屋の外がまた明るくなった。そこにはもう頭蓋骨はなかった。遠くの雲が閃光に合わせて茜色に輝いていた。僕はふと、Iはどうしたのだろうと思った。どうして待ち合わせの時間に来なかったのだろうか。そしてそう思って、今度は、自分が何のためにIを待っ ていたのだろうかと考えた。幾ら考えても思い出せなかった。そして、女が云ったようにもうすぐ何かが遣ってくる、それも少し前までは判っていたはずなの に、今はもう何も思い出せないでいることに気付いた。何だか泣き出したい気分になった。背中の寒さから逃れるように、僕は女の小さな胸に顔を押しあてた。 そうして女の脂粉の匂いを嗅ぐと、何故だか涙が瞼(まぶた)の裏に滲んできた。僕は涙を紛らわそうとして女の口調を真似て、
さようなら・・・・と呟(つぶや)いてみた。そうすれば何か答えが見つかるのではないかと思われた。だが何も思い出せなかった。自分が誰かさえ定かでないような気がした。

もう一度、さようならと呟いてみようとして、そう思うとますます遣りきれず、瞼の裏に涙がとめどなく溢れた。

Posted by Takashi.E