海辺の街にて
海辺伝いに走る列車がその街の駅に着いた時にはもう夕暮れになっていた。二両編成のおもちゃのような列車の扉が開くと急に磯の匂いが立ち込めてきた。
半島をうねうねと渡り歩いてこの街にたどり着いた。
随分と古ぼけた地方の港町・・・
この街に降り立つのはもう何回目だろう。仁丹の行商を初めて3年。この半島を北から南まで下っては、また南から北に上がってゆく。この3年、それをもう何回繰り返したことだろう。この3年間、どの市町村を歩いていてもなんら変わることはなかった。日本国政府は躍起になってこの半島において日本語を公用語にすべく教育を施してきたけれど、田舎を廻っていると、こんな小さな半島においてさえ異文化を普及させるのはとても難しいのだろうと容易に想像できる。この3年、ますます人々の私を見つめる眼つきがぎすぎすして、あからさまな敵意がむき出しになってきた。しかし私は身の恐怖を感じたことはない。この国の人間たちは気持がやさしいのかもしれない。いやむしろ、土着の者たちのもつ温かさは排他性に繋がっていて、そのよそよそしさが心地よくすらあった。
海辺の鄙びたその駅の風景は前に来た時と一切変わらなかった。もう一年もたつかもしれない。前に来た時も同じような寒い季節だった。
私はその単線線路の木造のこじんまりとした駅舎を出ると、駅前の商店街を右に折れ、堤防沿いの砂利道を歩いた。道の両脇には木製の電信柱の、背伸びすると手が届きそうな所に裸電球が煌煌とつらなって、野菜や果物、魚を売る屋台が立ち並んで、この田舎町で唯一活気を呈していた。夕飯の支度の買物客がせわしなく行き交う中を私はゆっくりと歩いて行った。
歩いているうちにさらに陽が傾き、街の風景は全体的に色褪せていて、行きかう人たちの顔もぼんやりと曖昧になった。通りを抜けた路地の始まりの角に一軒の旅館が立っていた。場末の雰囲気のある汚れたコンクリート造りにタイル張りの銭湯のような外観である。そしてそれは、私が目指して歩いていた目的地であった。
通された部屋は前に泊った時と同じ廊下の突き当たりの角部屋だった。窓からは海が見えた。その旅館から見る夕暮れの海は、黒々とした深淵に繋がっているかのように荒涼としていた。
しばらくすると旅館の女将がやってきて挨拶した。女は私のことを覚えてないのは明白であったが、私のことを知っているような愛想を振りまいた。 私は女将と言葉を交わしながら窓の外を眺めた。漁港に毛が生えたような小さな港に不釣り合いな軍艦のような巨大な灰色の船舶が停泊していた。空に向かって反り返っている砲身が不気味にも卑猥な感じがしておかしかった。
日が暮れてから私は、その街中をさまよい歩いた。その街のメインストリートは駅から港を経由して街外れの高台の方に湾曲していて、その大通り以外はみな曲がりくねった小さな路地になっていた。オレンジに光る街灯が街並みを映し出してはいたが風景がとてもぼんやりしていてすべてが曖昧模糊としている。
私は幾分は活気のある華やかな駅前の商店街を通り抜けて、港とは反対側の鄙びた路地裏の風景の中を歩いた。
小さなネオンの灯り始めた場末の飲み屋が軒を並べる一角を抜けて、路地を突っ切ったところからは高台の方に伸びる一本道を歩いた。私には行くあてがあった。道がやがて石垣につきあたり大きく右に曲がった。それをさらに登ってゆくと、小高い丘の上に瀟洒な洋館が立っていた。白く塗られた木造のこじゃれた館であった。
私はそのドアの鈴を鳴らし、しばらく反応を待った。
遠くで季節外れの雷の音がした。
私は何故だかわからない恐怖を感じていた。何が怖いのかわからないが体の芯から震えがこみあげてきた。
一刻後には私はその家の廊下にいた。
そして一人の女に対峙していた。
若い美しい女だった。
(帰ってきたんだよ)と私は心の中で叫んだ。
女は私の眼をまっすぐに見つめていた。
女の顔が無表情でのっぺりとしていた。
にわかに遠くで稲光がした。
その瞬間、その女の首を絞めている自分の映像が脳裏をかすめた。
昭和16年2月23日 半島のとある港町にて